せぼねとて

絵の事とかそれ以外のこととか。

抽象課題、夏①

 今年の夏はやけに暑かったように思う。7月下旬クーラーが効き始めたアトリエでF4のキャンバス三つそれぞれにみどりの絵を描いた。一つ先の出っ張った山と湖みたいな絵、一つは山と谷のような絵、そしてもう一つは渦みたいな絵。始まりはモチーフのない風景のような始まりだった。その3つのうち2つは残念ながら講評のための展示には並べなかった、少しデタラメな絵に見えたから。

 夏休みに入ると普段のアトリエとは違うEクラス、Fクラスの合同のアトリエになった。普段顔を合わせることが少ないメンツと同じアトリエになって気分が上がっていたのを覚えている。無駄に集中力を欠いていたような気もする。まだこの段階では抽象絵画というものの理解が少ししかされていなかった。もともと僕は受験期も長いこと具象度の高い絵ばかりで抽象というものへの興味がなかった。


 夏休みの最初の1週間くらいで僕は濃厚接触者になってしまったためそれから2週間強家で待機となった。(PCR検査は陰性だった。)ここから僕の制作は変わっていった気がする。買い込んでいたキャンバスの山と人生で初めて買った大きい絵の具のチューブで巣ごもりを始めた。図書館で借りた絵画の歴史みたいな本を手がかりに好きそうな抽象の作家を探した。主に有名どころの作家だ。リシツキーやニコラドスタール、マレーヴィチなど、何枚か見たことある程度だったのでインターネットで目がおかしくなるくらい見た。

 結局どれも自分の肌感覚的に合わなくて抑えるべき辺りを抑えておしまいにした。なんとなく手がかりになりそうなものが見つからなくなって、抽象の作家という括りで考えるのをやめた。行き着いたのは中園孔二やVarda Caivanoバスキア、ラウルデカイザー、僕がもともと気になっていた作家を抽象の参考にならないかなと思って見始めた。具象度、(再現描写度)の高い作家の表層的なところばかり真似てきた僕にはかなり自由な感じがあった。その作家の絵の具の量、筆運びの決定、形の選択、僕はこの時強く感動していた。色彩の躍動、絵の具の美しい流れ。その感覚を僕自身の絵で起こすことはできないだろうかと考え始めたのだ。

 それからの制作は前のめりに描くことだけだった。色々な形のアイデアや色の組み合わせ、色面の分割の仕方ありとあらゆる可能性が広がっていくのを感じた。夏休みの間に340枚くらい(あるいはそれ以上)描いた。面白いことに描いてみたい図像や色の組み合わせというのは描けば描くほど沸いてくるものなのだな。