せぼねとて

絵の事とかそれ以外のこととか。

 技術はものではないし、彼の身体の物としての特質を指しているわけでもない。「技術」として「持っている」ものは物体(オブジェクト)ではなくて、当然それは行為、行動の働きとその質であるはずである。

 「技術」を「持つ」とあえて言うのは「技術」が先天的なものではなく、外在的なもの、つまり後天的なに、後から獲得されるものである。
   自分のもともと持っていなかった技術を習得し、忘れ、そして再獲得する。それが技術を学ぶ、持つということである。
   技術を得る上で何度でも思い起こし繰り返すためには、手がかりが必要である。
   対象として持つことができないものをしっかり把握し、思い起こすための手がかり。ゆえに人は手がかりを求め、それを記し、[*  一種の外的な記憶として保存しようとする]

 楽譜や図面、ダイヤグラム。あるいはいたずらガキのように見えるメモ、デッサン。覚え書き。
 捉え難く忘れやすい、常に出来事して生起しするだけで不安定な行為を、記号化し、記録する、こうした外的な記憶を作ることを、広く[* ノーテーション(記譜])と呼んでおこう。
 具体的な記譜のない場合でも、技術が習得、継承され反復するところには、必ず、構造としてのノーテーションがあると考える。

 ノーテーションによって、人は自分の行為をはじめて客体(オブジェクト)化し、「技術」として「持つ」ことができるようになるとも言えるだろう。
 楽譜やメモは持つことができる。そのつど起こる出来事が常に同じものであると確認することもできる。
  さびたナイフはもはや道具としては使えないが、そのナイフの事物としての形態は、ナイフが[/ いかなる働きを持つのかをまさに客体的構造]として示している。
  ゆえに人は錆びたナイフをモデルにして新しいナイフを作り出すことができる。楽譜や図面も基本的に同じである。それらは対象の構造的同一性を理解しやすくするために参照される。
 [* ノーテーション]と言う語の意味を突き詰めれば、[* 「技術に構造を与えるための外的な参照物」]と言うことになるだろう。

[* 教えること、伝えることは解体することである。]
 自らがもつ見事に統合された名人芸を、ひとまず簡単な要素に解体してしまう。「これはこんなに簡単な事柄でできていたのだ」と。もちろん難しいのは、どう解体するかにあって、その解体された要素にあるのではない。そして[* それを再び、どう一つの連続した全体として組み立てるか、つなぎ合わせるか]。そこにこそ秘伝がある。
 こうして伝授されるのは芸そのものではない。むしろ芸を行う名人が、その芸をどのように把握しているか、という構造である。

 再生産。同一なものとするのは構造である。構造は大きさを持たず、特定の時間と場に固定されない。同一性として、そこで確保されるのは、あくまでも[* 要素と要素の関係]、[* 順序]、[* 序列(order)]である。
 この関係さえ維持されれば個別な要素のそれぞれは置き換え可能だ。ゆえにそれは持ち運びできるし、他のものへ移しかえることができる。
 認識とはこの関係を把握することだ。
 同じ出来事が他の素材、他の人物たちによって、繰り返される(ゆえに比喩、比例は構造認識の出発点であったと言うことができる。)
 ノーテーションで記述されるのは、この構造であり、言い換えれば構造を構造として規定するのはノーテーションである。繰り返せば、ノーテーションとは一つの外的な参照物、つまりそれ自身が一つの事物である。

[* プログラムの形式、出力の形式]
 形式(ステンドグラス、テキスタイル、木版、写真...etc)の違いが入力情報の処理の違いを生み出す。言い換えれば出力形式あるいは生産形式の違いは、同じ対象についての記述形式(ノーテーション)も変える。
 制作生産方法の違い、出力形態の違いがコンピュータのプログラムの違いに帰結する。

[* ジャンルの再配置]
 同じ画像を理解、鑑賞する形式においてもまったく異なる論理をもっていたのだから。美術と一括りにされている各メディアが、実はまったく認識も技術形式も異なる、複数の形式で分断されていることに気づく。
 日本の大工の伝来工法で西洋の協会建築を複製する、あるいは木版で油彩画を模写、複製する、一見似たものができたとしても、そこで複製された物とオリジナル(教会建築、油彩画)は根本的に異なる。
 模写しきれないもの、それは技術的な制度ではなく[* 依拠する技術体系]の違いにこそ由来する。
 犬の鳴き声を日本語ではワンワンと真似するが、英語ではbow wowと真似することの違いと似ている。

[* 統合的な表現形式、メタジャンルはあるのか]
 全てを同じ基準で認識でき、再生できる統合的な技術はありえないのだろうか。
  この問いは少しねじれている。モザイク職人にとっては、いかなる画像であれ(例えば水墨画の滲みまでも)モザイクで再現可能であるし、三味線でジミヘンをコピーすることもできるし反対にジミヘンが三味線をコピーすることもできるだろう。
  しかしこの決して相対する二つの模写(=変換)方向の違いは同じにならない。

 なおマルチメディアと言われているものは、情報を送るインターネットなどの通信手段あるいはショーウィンドウや美術館、ギャラリーなどのディスプレイ(表示)手段、いずれもコンテンツそれ自身の形式ではなく、コンテンツを梱包する形式を言うにすぎない。
 なんでも送れると言うのであれば郵便以前の昔から人は、いかなるものでも(生き物でも温泉でも)輸送する手段を持っていた。また展示形式というならば、そもそも太古の市場ですら、あらゆるものが並べられ、取引されていた。
 光ファイバーによってメディアの差を声、全ての情報がデジタル情報として一元化され送付されうるなどと喧伝されていても、こうした流通形式の一元化は決して生産形式そのものの一元化を意味しない。
     喧伝...商品の効能や主義・主張などに対する理解・山道を求めて広く伝え知らせること。事実以上にまた、事実を曲げて言いふらすこと。
     一元化...ばらばらになっている組織や機構、または一見関係のない問題を、一つの原理で統一すること。
     マルチメディア...情報媒体(メディア)の様態の一種で、文字や画像、動画、音声など、様々な種類・形式の情報を組み合わせて複合的に扱うことができるもの

 流通手段は、生産手段に内在化された差異を同一化するどころか、むしろ、内在的な差異がないところにまで、それがあるかのように差異を強調することがある。
 たとえば輸送業者にとって梱包材と梱包されるコンテンツにちがいはない。同じ量、カサであれば同じ価格だ。しかし同じ事物であってもそれを送るプロセスそれ自体は差異=価格のちがいをうみだす。
  たとえば質から見れば、どこにあっても空気は空気である。だからパリの空気をニューヨークに送るのはナンセンスだが、その送ったという事実とプロセスによって、パリからニューヨークに送られた事実とプロセスによって、パリからニューヨークに送られた空気はパリにもニューヨークにも存在しない「差異」をもった空気として扱われてしまう。
 流通手段は一元化という建前で、こうした差異、属性を新たに事物に付加させる。
 しかし同じ画像=情報であれば、それがオーストラリアのサーバーからダウンロードされようと台湾のサーバーからダウンロードされようと、同じである。
 今から四十年前であれば、マーシャル・マクルハーンが書いたように「メディアはメッセージ」であり、また「マッサージ」でもあっただろう。流通形態としてのメディアの違い、ディスプレイ(表示)方法のちがい、出力の違いはそのままコンテンツの違いをもたらすとさえ考えられていた。
 同じ入力情報であっても、その情報の現れ、感覚に触れる効果のちがい(メディアはマッサージである)、さらには経緯の違いがコンテンツの違いとして受容される(メッセージである)ことになるのだと。